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note 2020 ローカル72候マラソン【啓蟄】第7候・蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)第8候・桃始笑(ももはじめてさく)第9候・菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

毒と冠 大福で 祝う スノーボールバード 縁側で
https://note.com/compassflower/n/nf245ed6097df

春空に とよもす 桃色の笑い声 
https://note.com/compassflower/n/n6ed4138b9e12

雪の果 はだら雪 名残の雪が 蝶となる
https://note.com/compassflower/n/nfee8aac64cc5

note 2020 ローカル72候マラソン【雨水】第4候・土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)第5候・霞始靆(かすみはじめてたなびく)第6候・草木萌動(そうもくめばえいずる)

四季のめぐりを纏う園
https://note.com/compassflower/n/n8bbd6de0a5e2

擬宝珠の若い芽を「うるい」というは絶妙 五感全部がうなずきました まん頭のようにふっくらとした初春のときを
https://note.com/compassflower/n/n8ef0fb183148

はなのみち コロナ騒動で人の世は春だというのに節目が曖昧にされ 一つ一つのめでたさを喜べない こんなに一粒一粒キラキラした瞬間が吹き溢れているのに 草木萌動
https://note.com/compassflower/n/nb9c8d0ffcc90

note 2020 ローカル72候マラソン 【立春】 第1候・東風解凍(こちこおりをとく)第2候・黄鶯睍睆(うぐいすなく)第3候・魚上氷(うおこおりをいずる) 

「鬼と春」
https://note.com/compassflower/n/ncca6d49375d3
「季(とき)を記す花  flower-piano」
https://note.com/compassflower/n/n0c4f5ff6d78f
「うつろの宮と宝石の夢」
https://note.com/compassflower/n/n97c85a50b2fa

はなのみち 第3季 修了者への手紙

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赤坂氷川神社花活け教室「はなのみち」第三季 修了おめでとうございます

今季は最後の最後で予想しなかったことが起こりましたね 世界が変化する時期なのかもしれませんが 各人各国が利己的に より保守的になることが怖いですね 

悪者とされる新型コロナウィルス なにやらまだ正体はっきりしませんが コロナとはもとラテン語で植物の花冠 あるいは太陽の光冠のことでもあります
修了証の挿絵は ウィルスではなく 花の輪を そして光冠を届けに来た鏡餅の精とでも言いましょうか 修了はおめでたいので色々くっつけて行ったら不思議なキャラになりました そもそも鏡餅の形そのものが 太陽の秩序のもと その恵みの元で生きていることへの感謝の造形とも見えます  太陽のシンボルである橙の周りには太陽系の惑星が回っています 目は芽でありクローバーに 鼻=花は心も表すのでハートにしました 耳は実実ですからサクランボと林檎にしました  もう一人は大黒天 つまり大国主命です ギフトを詰めた大きな袋を背負ってやって来ます 


春分の前の日に 土井善晴さんのお話しを聞く機会がありました ワタリウム美術館の「大拙を体験する」という企画の第二回目です(http://www.watarium.co.jp/lec_daisetsu/2020/daisetsu_2020_1_2.pdf) 学ぶことが多かったのです 花を活けることは 料理 ことに和食にとてもよく似ていると思います
 
まず「前例がない」 厳密な再現性はありません
レシピはシナリオであって 設計図ではない シナリオということは演じ手が都度生み出すものだと言うことです 直覚的知識を持ってそれに向き合う 直覚的知識は生命体が生きる力そのもので 何が起こるかわからないとき ことが起こった時に柔軟に対応する知です 経験や書物などから得た情報も付加され 知は総出ではたらきます
料理の素材と同じく 花も刻々と変化していきます 旬があります 曖昧でいつも異なります そのようなものですから 技法や型に縛られるものではない 要はそこで出会う 取り合わせたもの全てが伸びやかで生き生きしていることが大切で それを見て人は喜びを感じ活かされる それが花を活けることと言えます そして和食は頭で考えていては色々とその変化に「間に合わない」とされます 確かに旬は瞬く間に逃げていくでしょう これも花を活けることと同じです

「はなのみち」では風土のこと 縄文アニミズム由来の草木国土悉皆成仏など とてもシンプルで根に当たることを大事にして来ました アニミズムは 全てのものに神が宿るという考え方ですから 姿なくとも神がおわしますように振舞います 昔の人はぞんざいな仕事を嫌ったと言いますが ものを自分で作らない 大切にしない今の世の中では こうした振る舞いがないがしろにされがちですね そうなってくると自分の身体や感覚は信じられなくなってしまいますから メディアや様々な情報に振り回されてしまうでしょう 土井さんは自ら腕を振るって料理をすることで 原点に触れることができると言います 僕は花を活けることも同じだと思うのです 料理も花活けも 嘘はつけません みんな現れてしまう 

美しさは お天道様と共にある草木のように正しさを持つものに宿ると言います 花を美しいと思い ただひたすらに彼らが嬉しいように花を活け 喜びを同じくする


花を活けるにもいろんな形があるのはみなさんご存知かと思います 歴史を見れば 依り代 花合わせ 立華 盛り花 投げ入れ フラワーアレンジメントなどなど様々なスタイルが流行し それぞれモードや洗練があり 理論が加上され 混生して来ました しかし 根っこのところは素朴で 素直ないのちの交流だったと思います そしてそれは暮らしの中に美として植え付けられて来たのです 和食の中でもそれは家庭料理に近いのではないでしょうか 料理人の料理とは異なります 花を活ける時も 人の花を見る時もその立ち位置を見極めることが大事です そんな中で家庭料理は情緒を育ててくれます 家庭で長年使われてきた道具 室礼 空間と 人と自然が響き合って 調和を生み 沢山の背後にある物語をはぐくむもの いただく時 知らず知らずのうちに 背後にある物語ごといただいています こうして家庭料理が「いつも」を作ってくれることで「特別」がわかりますし それぞれの「基準」が作られ「比較」ができます 感性が育ちます 思いに触れるからでしょう 

和食は最低限の加工で素材を活かしますが これも「はなのみち」の目指すところと全く一緒だと思っています 元々が美しい 美味しいものですから できるだけ旬を大事に差し出します 旬も色々ですが ひたすら素材が嬉しいように それぞれが光り 響き合うように手を添えるだけでいいのです 捻くり回さなくていいですし 思うようにしようなどと思わない方が大抵うまくいくように思います そして「ああ、きれいだな」とか「うまい」とか「こう来るか」とか「意外」をたのしめる ちょっとしたことに気がついて喜ぶ感性も大切です 「笑う門には福来たる」は本当で 72候の第八候「桃始笑」とありますし 古事記の天岩戸神話のところで「神々が咲った」と書かれています 笑うということは割る 破ることですから それによって何かを打破します 花は咲くことで 蜂が訪れ新しい世界に飛び出します よろこびはよろこびを呼びます

花に向かうとき 「ハナ」は先端であり 高いところであり いのちの誕生そのもので カミの宿りです 神道で祀る神様に向かうこととほとんど同じ振る舞い 想いで接することが本来だったと思います 触れる は 震わす ことにもなり 接する手は清潔でなければなりません ですから禊をして 汚れを清めます「祓え」ですね 祓わなければ 新たな 清らかなものは入って来ません 神様はそういうところに宿ると考えたのです
神である花や自然の恵みを扱うときは 清潔な心地も目指します 花を活ける時 聞こえない音や声を聞いています 花を挿すごとに生まれてくる響きを聞きます 流れを止めないように あふれるままに余白が余白を産み そこで音楽は響くのです しかもその音はスッと立って スッと消えていきます 明滅する光です 身体も空洞にして聞くのです あとは余韻 いい音が消えるまで、その場には何かが宿っていつもと異なる時間が流れているのです それが終わったら あと 送るところまで 大切です 巡り会えてよかった ありがとう 

花のように人の一生は短いけれど 喜びのある「深い」時間を過ごすことはできると思います 悲喜交々の情感は 歌い継がれていきます

それぞれが お天道様の秩序の中にある たった一つの命 それは花であり 結晶であり 星です

これからもどうぞ 季節を愛で 時には花を活けて 自らの芯を 真 新を確かめ 自らを信じ立てていく喜びを染み込ませてください 香りや手触りや悦びを身体に刻んでください それぞれの生き方に織り込まれて「はなのみち」は続きます その光の網で いつかまたお会いしましょう 
                                 令和2年 春分   
                               はなのみち   塚田有一

みどりの星の座【「人と人、植物と人、月と人 言葉ではない対話 //めぐり花とコーマワーク】2019/9/14

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みどりの星の座 

世田谷ものづくり学校での「みどりの星の座」。
自らお題に沿って想像力を働かせ、花を摘み、みんなで一つの花活けを楽しむ「めぐり花」を中心に、稲葉さんの唱える「未来医療」をも手探りしたいと思っています。
今回は稲葉さんに「コーマワーク」のプチワークショップをやっていただくことにしました。コーマワークは医療の1ジャンルであるものの、体験してみると相手の意識に寄り添う、意識へダイブするような方法で、奥で魂に触れられるような感覚を覚えました。身近な家族同士でこうした言葉ではないコミュニケーションができることはとても大切なことのように思いました。お子さんが病気で眠っている時とか、無心でこうしたことは行為としてはしているかもしれません。そしてこの方法は植物や物との対話にも有効だと思っています。稲葉さんのガイドでコーマワークを体験した後のめぐり花で、植物に導かれる方法を体験してみます。

はじまり/
稲葉さんのコーマワーク。
ペアを組み、片方は、昏睡状態(昔の言い方だと植物人間)を演じる。
ポイントは3つ。
⑴相手の呼吸に合わせる。
⑵ヴィッパサナー瞑想のように体の微細な動きを実況中継して伝える。
⑶声をかけながら(声は小さく優しく)、そっと触れる。


昏睡状態、反応はできない。でも、体は常に動いている。相手にゆっくりこうやって触れてもらうことは案外少ない。受け身で、相手の言葉から自分の体がどうなっているか、無意識にどこが動いているのか知る。息がどう通っていくのか、蝉の声が聞こえるということはどういうことか、風はどう吹いているのか、新たに、導かれて気づいていく。

これはお節供や行事がなぜあるのかということとも繋がっていて、忙しなく、息つく間もなく過ぎ去っていく時の流れを、ちょっとゆっくりして、例えば七夕では夏から秋の「あわい」に触れる。重陽では秋から冬のあわい。お節供は季節の「行き交い祭り」とも言われる。その時間は意識の深くに、そして心身と宇宙とのあわいに触れることでもある。夏は去り(死に)、秋が来る(生まれる)。わたしもそのようにリセットする。身を清め、身を委ね、あらたまる。生命は新たな季節に更新される。季節と季節の間に養生期間としての「土用」があり、うまくできないと体調を崩したりするのも、正直な心身のはたらきなのだろう。

稲葉さんは、昏睡状態やそれに近い状況にある人にとっては誰かがそっと横にいてくれるだけで安心するものだと思う、という。
救急の現場で、隣に自分と呼吸を合わせ、そっと触れ、声をかけてくれる人がいる。それだけで守られているような感覚を持つものだと。病や怪我に対峙するだけではなく、病や痛みを抱えた人に寄り添う。こうした力は、本当は誰でもが持っている力だと思う。医師のもつ素晴らしい技術は持っていなくても、そばにいて、触れ、声をかけ、息を合わせて同期すること。

話している時、稲葉さんはとことことやってきた寿太郎くんを抱っこしていた。身を任せ切った寿太郎くんはお父さんの胸の中でとてもとても深く安らいでいるように見えた。この時の言葉ではない対話こそ、コーマワークの原点かもしれないと思った。


親子でご参加くださった方もいて、お母さんは娘さんにこうする(コーマワークのような接し方)のは普通だとおっしゃっていたけど、娘にこんな風にしてもらって、70歳まで自分は健康で、大きな病気もしてこなかったからあまり意識してこなかったが、自分の体に気づかせてもらえたのがとても新鮮だったと話してくれた。そう、親にとっては「コーマワーク」という言葉は知らなくても、経験済みのはずだ。また子供は親を求め、抱かれて親に丸ごと生命を委ねることで深い意識の底で対話している。

家族がよく眠れないとか、怖い夢を見るとか、精神的に不安定だったりした時、この方法は日常でとても有効だと改めて思った。親子でも夫婦でも、恋人同士でも。


みる//

「みる」ということの本来とも繋がっている。
昨日は中秋の名月だった。これから空が透き通り、月が美しさを増す季節。「月見」と言う。「花見」「雪見」。雪月花という美意識を象徴するものを「見る」。
「国見」という言葉もある。望む、臨む、

見渡せば花も紅葉もなかりけり。。。

「見る」とはマジカルなこと。そして深く、ゆったりで、時間を超える行為だ。お医者さんの「診る」「看る」とも通じていて、視覚的なものだけでなく五感以上、背中や指先や丹田などたくさんの器官を使って相手と対話すること。

相互に相手をその身に満たすことでもあり、同期することでもある。「み」は、闇の「み」、黄泉の「み」、海の「み」、水の「み」、緑の「み」、道の「み」でもある。「み」は未だこの世に現れない、未生以前の場所。そこは暗闇だが、母親の胎内のように命が宿る場所のこと。夜であり、季節で言えば冬、色で言えば「黒」、まだ形を持つ前の、触知できないが確かにある。見えないが、命の源であり、それを感知しようというのが「みる」ことなのだろう。月見、花見、国見、皆相手の命を寿ぎ、霊力を発動させる行為なのだ。
コーマワークはこんな風に、見えないもの、霞んでいる先にあるものと対話する方法でもある。


見渡せば、、、

ゆっくりゆっくり見わたしてみる。
さくら咲き乱れる風景が立ち上がり、燃え上がる紅葉の景色も見えてくる

が、
なかりけり
で、それがパッと消えてしまう。

浦の苫屋の秋の夕暮れ

で侘びしい、波だけが打ち寄せる風景が際立つ

ゆっくりでないとこの歌の景色は見えにくい。現れてくる景色はフィクションであるが、フィクションやまぼろしを見ることができるのは人たる由縁だろうと思う。


めぐり花///
「めぐり花」も実はみんながそれぞれ持っているこの想像力と各自の身体性への信用があって成り立つ。もっというと細胞を信頼している。ある人はある細胞が縁あって集まり、その時点での調和を生み、その人らしさを醸し出している状態。その数約60兆。しかも、生命体として生きるのに必要な「植物器官」を私たちは一本の管として体内に持っている。この器官を身体の中心に、立てて持っている。真ん中に一本、植物を抱いている動物が人である。
調和した世界を思い出し、内臓意識に触れ、自らを立て直すのが花を立てるということでもある。真を立てる。それに寄り添い、想起する縁が形になっていく。真とは「まこと」。誠、一、実、慎、真事である。そうして立てるのは占い。神意を伺うのが依り代であり、立て花であった。これは地軸をたしかめることでもあり、陰陽の交わり、婚姻でもある。その時花は、世界は湧出する。此処に、個々に集められた花はある意味生け贄。聖なる捧げものでもあり、それらを調和させていき、未来を占う。それは祈り。直き 明き 清き 世界を求めるもの。世よ、直れ。治れ、世界。小さな革命です。

「めぐり花」では、集った人々、集められた草花で、世界が一つ生まれる。イメージの発露に「縛り」は有効。今回は中秋の名月。月相をテーマに、朔、三日月、望、下弦、晦の5つのテーマで、花を摘みに外へ。お天気は曇りがち。見えないけれど、満月の時間は過ぎたばかり。月と植物。月は草の母。月は水を司る。地上の水的なもの(血液、涙、体液なども、故に情緒なども)。そんな庭はちょっとざわざわしている。台風のせいもあるだろうけど。(この間の台風で8メートルほどある楡の木からスズメ蜂の巣が叩き落とされて、駆除はしたとの事務局からの報告。まだ戻り蜂が危険ということで、そちらへは行かないように)。目についたものをちょこちょこと解説しつつ、一周りしていくと、皆さんのそれぞれの桶に花が足されていく。朔望晦、三日月、下弦、、、、皆さんの頭の中で、月相がきっと点滅していたことでしょう。「きれい」と思って切ってしまって、ハッとすることもあるかもしれないけど、意味は後付けでももちろん構いません。
稲葉さんのガイドで初めにやったコーマワークのおかげで、めぐり花では花を通じてそれぞれの呼吸がよく合っていたように見えた。
それぞれの花の様子と「対話」について瞬時に深く洞察しつつ、場に感応する子供達に反射するものをさっとつかまえる稲葉さんのブログをご覧ください。
https://www.toshiroinaba.com/single-post/2019/09/15/新学校園-第四回「山滴る巡り花」IID-世田谷ものづくり学校?fbclid=IwAR2oSv2ktexomQMTjyooXg5wGfqku4NxNxUntXJtcSKsUYSD958ocyoJZk0

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大人がとても真剣に活けていると、
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例えばこんな風に横切っていく。
顔をしかめるか、笑えるか。僕はとても楽しい。


花は一人でやると瞑想に近いけど、みんなでやるとお祭りになる。
息を合わせるし、予定調和がないし、生け花は誕生するものだから、ライブそしてグルーブ感がある。驚きがあるし、イメージの異なりを受け入れられる。速度も必要だから、あまり考えている時間がない。そしてやはり植物そのものが無垢で美しい。そう感じて、花を活ける「人」という動物って、、、胸に手を当てて、思いを巡らす。出来上がってみると、円環する時間が凝縮され、真ん中に立つとそこは地球。

かつてのワークショップの様子/
http://onshitsu.com/2014/11/02-011709.php

http://onshitsu.com/2015/01/30-201356.php

http://onshitsu.com/2014/09/28-202314.php

===ご参加くださった稲葉さんのご友人のレポート===
「人と人、植物と人、月と人 言葉ではない対話 //めぐり花とコーマワーク」体験
縁があってコーマワーク(昏睡状態の方との対話アプローチの一つ。数年前から関心あり)と学校園にある中の草花を自由に摘んで、月の満ち欠けをテーマにしてみんなで生けるのめぐり花というワークショップに参加しました。
このコーマワークとめぐり花の二つにどんな関係が?と思われるかもですが、対人だけではなく言葉を介しない生きているものとの双方向のやり取りを意識するということかなと思いました。
秋のはじまりに、思いがけずとても豊かな時間を過ごせました。主催者の塚田さん、稲葉くんどうもありがとうございました!
・コーマワーク
妻を相手に実践。大切なことは3つ。1.相手の呼吸に合わせる、2.相手の状態を実況中継して伝えてあげる、3.相手に断ってそっと触れる
実際に昏睡状態であることを演じてみることで、こちらからは言語で発することはないのですが、一人の人格に対して丁寧に話してもらえていることがありがたく、温かく感じました。また触れられることで、自分の境界を認知することができ、目をつむった状態でも相手が自分に向き合ってくれていることをより実感できました。
子どももいたので、完全に集中して向き合うことが難しかったですが、特に自分でされる側をするのは新鮮ですね。
いつ何時、昏睡した人との対話がやってくるかもしれない、それにそもそも言葉を発しない相手とのやり取りは日常にもあるはずです。相手から何かを知りたい、相手に伝えたいという気持ちがあればやり方はそんなに難しいものではないとも思いました。
・めぐり花
月の満ち欠けをテーマに、校庭に出かけて草花を集めました。草木の中には、とても香りがよいものもあって秋の風の爽やかさの中で心地よかった。子どもたちも葉っぱや虫、土をいじって大はしゃぎ。
集めた草花から、みなで一つずつの花瓶に、テーマに沿ったものを生けていきます。これがすんごく楽しく、そして美しい。すべてができあがると、ぐるり月の満ち欠けをテーマにした花瓶と草花に囲まれた空間ができあがりました。それは、ただただ素敵な場。
集った参加者の感性やその土地によってできあがるものは毎回違うはずで、参加者との感想の交換も気持ちのよいものでした。多くを語るというより、思いを表現して少し話して感じたものをより深めるという印象でした。
今後自宅に庭ができたら、これは季節ごとにやってみたいなと思いましたよ。

TERRAIN VAGUE vol.164【9.19あいのことばtour in 温室】プリミ恥部さん 2019/9/19

僕が到着するとプリミさんは、ラブパジャマという正装でギターを抱え、リハーサルしていた。どんぐりのようなまなことアイコンタクトし、肯き合って、僕は花の準備を始める。
合間に二言三言、花を生けるタイミングだけ確認し、花材を開いて確認したところで時間が来る。『あいのことば』の編集の方もいらっしゃる。

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『あいのことば』
ひらがなで「あい」とつけた。英語のloveは語源にbelieveがあり、live,lifeにも通ずるという。
「あい」は旧仮名では「あゐ」で国語の「あを=青」に通じる。
「あを」は彼岸、異界、あわい、泡でもあり、葬送の地には「青」が付く場所が多い。
愛も後ろ髪を引かれて後ろを振り返っている形とされる。
色味で言えば反対の白に対しての青ということで、顕に対する漠である。
霞がかかって、はっきりとしない、漠然とした状態など、
「あゐ」には悲しみ、悲哀が混ざり、ラブでハッピーなフワフワしたものだけではない。
今回青い花を使ったのには、そうした意味がある。

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石化柳 柳の字は「リュウ」とも読み、この柳は龍にような形状。
石化柳は蛇龍柳とも呼ばれる。まず龍を立てた。立つものは龍。辰とも書かれる。立つは斷つ、経つ、発つ、截つで起つ。気を立てることでもある。
まず7本の柳が、透明な厚いガラスの器に立てられ、
そのあと深い森のイメージとして
あすなろヒノキが気を受け、広がりを作り、青い実の南天が合わされる。
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thereとして、白朮(おけら)の枯葉色のもの、竜胆、桔梗を挿し、
蘇りの光として晒菜升麻、曙草、白朮の緑葉のもの、
山葡萄の青い宝石のような実、最後に満開の仙人草を流した。
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仙人草は、桑畑の主であるプリミさんに捧げる。
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青い世界から白い光の世界へ、、、というイメージ。
終わってまた始まる。

プリミさんの歌のせいか、花々がとても陽気だったように思う。
こどもたちのように無邪気に声をあげている。
彼らが行きたい場所が開かれるから、何も考える必要はなくて、
手にした花が導いてくれる。
自動筆記ならぬ自動装花?自動挿花か。
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プリミさんから届いた案内文から抜粋。

温室は
9月いっぱいで
神保町のスペースを終えるとお聞きし
ぜひ最後の月に

塚田有一さんの花活けとともに
すごす時間があれば
とおもいました。

不思議なくらい
ご縁があらわれていく
塚田さんご家族とは
なにかこれからも
ご一緒するようなことが
あるのではないかとおもいますが

その未来のパラレルヴィジョンも祝福しつつ
おわりとはじまりの
あいのことばを
919の夜に
交わせればと感じております。



花を見ながら少しの時間対談形式に会が進行する。
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河合隼雄さんの唱えた「中空構造の日本」についてプリミさんが触れた。

僕も「真」というものは誕生してくるものだということ実感し、
それが一本の、例えば松を立てればそうなるかというとそうでもなく、
実は合わせる木々草花全部でそれを生む。真(芯)が誕生してくる瞬間がとても面白い。
その真ん中に真として立てた木がない場合もある。つまり、竜巻の目のようなもので、周りがぐるぐると回転し、中心が空いている場合があるということだ。イザナギとイザナミが舞って、回転すれば、芯が生まれる、激しくなれば立ち上がる。中国の建国神話に出てくる女媧と溥儀は下半身は蛇身であり絡み合っている。扶桑樹という太陽が毎日昇るとされる世界樹も絡み合っているし、桑の木の下でまぐわうと子宝に恵まれるという伝説もあった。日本だとそれが栗の木だったりする。
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(写真は全てShinichi Tsukada )

活けた花は新たな命を持った新しい花。
切なさが、
刹那さが、
伝えてくれる
光として
残像として虹彩に映じる容。
胸を刺して
逝く花
無慈悲な彼らに。

東国三社詣り 2019/8/15満月お盆

鹿島神宮、香取神宮、息栖神社という東国三社詣りへ。
大型の台風が西日本を横切り、日本海へ抜ける余波は太平洋岸まで届いている。
晴れているが時折その陽は雲で遮られ、樹々も風に煽られる。
高速道路は空いている。
一番奥の鹿島から順番にと思っていたが、
東京寄りの香取神宮からお参りすることにした。

千葉の一の宮。 
駐車場からの参道商店会は隙間が目立って呼子のおばさんたちの数も少し寂しい。
御祭神は【経津主大神(ふつぬしのおおかみ)】<又の御名伊波比主命(いはひぬしのみこと)〉拝殿前は杉の巨木が立ち並んでいて、厳かだ。朱塗りの楼門、黒塗りの拝殿。黒塗りの拝殿は、刀剣の威力を表した振るう、命を震わせる、再生させる経津主大神に相応しい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/経津主神
神の使いである鹿が灯篭や拝殿の彫り物に見られる。「桜の馬場」と言われる場所の奥には
鹿苑もあるようだ。

公式サイトにはこうある。

出雲の国譲りの神話をご存じでしょうか?
香取の御祭神 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、この神話に出てくる神様です。

はるか昔、高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ / 伊勢神宮・内宮の御祭神)は、葦原中国(あしはらのなかつくに / 現在の日本)は自分の息子が治めるべきだとお考えになりました。
葦原中国は荒ぶる神々が争い乱れていたため、天照大神が八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神であるということで出雲国の大国主神(おおくにぬしのかみ)の元に遣わされましたが、天穂日命は大国主神に従い家来になってしまいました。次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされましたが、天稚彦もまた忠誠の心なく、大国主神の娘である下照姫(したてるひめ)を妻として自ずから国を乗っ取ろうとし、天照大神の元に戻りませんでした。
このようなことが二度つづいたので、天照大神が八百万神にもう一度慎重に相談すると、神々が口を揃えて、経津主神こそふさわしいと言いました。 そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ / 鹿島神宮の御祭神)も名乗り出て、二神は共に出雲に派遣されることとなりました。
出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いた経津主、武甕槌が十握剣(とつかのつるぎ)を抜き逆さに突き立て武威を示すと、大国主神は天照大神の命令に従い葦原中国を譲りました。
二神は大国主神から平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、日本の国を平定して、天照大神の元へ復命されたのです。
御神徳として。
古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤く、特に『神宮』の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、中世以降は下総国の一宮、明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和17年、勅祭社に治定され今日に至っています。

奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地に及んでいて、広く尊崇をあつめています。
一般からは家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されています。さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名です。

「要石」へも祈った。多くの人がこのちょっと出た丸い石にグッと力を載せただろう。
香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。

表参道から総門の手前両側に神池があって、参道を挟んでの配置がちょっと面白かった。

中心の一本が朽ちてしまった「三本杉」
まるで、川瀬さんのお話のようだ。
立て花の型の話。天と地はアマテラスとスサノオ、間は宙空でそこにツクヨミという。仮説だったかもしれないが、以前下鴨神社で偶然お目にかかった時にそんなことを呟かれていた。

造化三神アメノミナカヌシ、高皇産霊、神産巣日

暑くて参っていたけど、参道商店街の喫茶店で氷を食べて、彼女は少し元気が戻った。


次は鳥栖神社とばかり思っていたけど違って「息栖神社」
御祭神は久那戸の神(岐の神)、雨の鳥船の神、住吉三神。
道を開き、祓う神々。
何か良い出発を予感させる。

また、海水から真水が生じることで尊ばれた井戸が御神体であるともいう。

利根川の支流の辺に立てられた大きな鳥居があり、その支柱の両側に、小さな鳥居が立てられています。その鳥居の下からは、泉が湧きだしています。
この井戸は、汽水の中に湧き出す非常に珍しいもので、 「忍潮井(忍塩井)=おしおい」と呼ばれ、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられています。左右の泉は、それぞれに女瓶、男瓶と呼ばれる瓶が据えられていて、その中から湧き出しています。男瓶は銚子の形をしていて、女瓶は土器の形をしてます。その瓶は、水の澄んだ日にしか姿を現さず、その姿が見られると幸運が舞い込んでくるといわれています。

芭蕉句碑。芭蕉は8月14日にこの地を訪れ句を詠んだという。
「この里は 気吹戸主(きぶきとぬし)の 風寒し」
俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは貞享4(1687)年8月14日。親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで鹿島の月を眺めるためでした。

最後は鹿嶋神宮

鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣(布都御魂の劔)」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。

と公式ページにある。

社叢は奥が深く、奥に行くに従って蜩が鳴いて、木漏れ日の中をゆっくり歩くととても落ち着く。どのくらいの人が歩いたのか、細かい砂の参道が心地よい。要石までたどり着くと、3月11日のようなことができるだけ起こらないように祈りを込める。ここの要石は凹型。ちょっとくぼみがある。小さな狛犬の頭も、窪んでいた。
建御雷荒魂を祀ったお宮もあった。

「鹿島立ち」という言葉があるように、旅の始まりへの祈願にはとても良かった。
図らずも、お盆の日、台風の強い追い風を受け、旅立ちの祈願をする。
芭蕉とも縁がある。
東北での仕事、お声掛がこれから増えるかもしれず、
まずは郡山、十和田を形にしていきたい。

ゆっくりゆっくりと心が凪いで行く旅だった。

一番は、彼女が喜んでくれればそれで良い。
お札は息栖神社のものにした。
呼吸がよくできるように。

家に着くと、
土砂降りのお天気雨。シャワーを浴びて、その雨が窓の向こうでキラキラと樹々の間を伝い落ちるのを見ながら、いつの間にか眠ってしまった。綺麗な緑の滝だった。手に横尾忠則の滝の絵が描かれた文庫本を持ったまま。

夢十夜 銀色にゆれるはな 夢の中で鏡をみたこと

10歳の頃、夏目漱石の『夢十夜』を読んで、
ぼくは小説を書き始めた。
あの時の救われた感じは忘れない。

たくさんの辛いことがありすぎた。よく生きてきたな、と今でも思う。
生きることを諦めなかった。

『夢十夜』から10年、『夢十夜』が結んだ奇跡のような出会いから1ヶ月、
このオルタナティブな空間で対話と朗読をした。
朗読は初めてだけど、多分大丈夫。
生けられていく花を見ながら、ゆっくり声にしよう。

第一夜

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤おいのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮かに浮かんでいる。
 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標(はかじるし)に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯(うなず)いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮かに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片(かけ)の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
 しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥(はるか)の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴たる、白い花弁(はなびら)に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。


時々活けられていく花を見て、
言葉を花の間に活けていった。
あやとりをしているようだ。
そうして
読んでいるうち、
吊られたガラスの花瓶に生けられた花がゆっくりぼくの方へ回ってきて、
それがちょうど物語では、「自分」が百合の花へ接吻するときだった。
活け花はもっと固いものだと思っていたぼくは、このとき活け花を体感できた。
ということはぼくの中の何かが目覚めた。

そして、幼い頃の記憶。
祖先をたどって岡山へ旅したとき、
白い猫がお墓へ誘ってくれたことをにわかに
思い出した。
あの白い猫は、漱石の真っ白な百合で、そして今日生けられた銀色の枝でもあったんだな。

銀色の色艶を持つ、抑えめなトーンの活け花。
宙に浮かんで、漂う花は、
気がつくと空に浮かんでいた暁の星のごとく。
余韻の中でゆっくりまわっている。

110年後の『夢十夜』
受け継がれていく物語は、それぞれの中に小さな星となって輝き続け、
タイミングが合えば共振する。

ああ、今日は来てくださった方々に、
何か小さくてもいいからそれぞれにギフトを届けたかった。

会の後、花の下で小さく輪を作って、みなさんと話した。
中学生、高校生も来てくれて嬉しかった。

ぼくは何か渡せたと思う。
それが証拠にぼくがたくさん贈り物をもらったから。


     TERRAIN VAGUE 「夢で鏡をみたこと」


大粒の泪が

小さな緑の部屋で、歌声の満ちる中、次々と花が生けられていった。

その花は、色合いといい、スケールといい、
3年前に突然わたしのそばから遠くへ行ってしまった
叔母の生ける花そのものだった。

わたしは叔母と切り盛りしていた花屋が大好きで大好きで、
あまりにも楽しかったから、
彼女の突然の不在から立ち直れないままだった。
辛くて花も見ないようにしてきた。

今日ここへ来たのは、叔母の導きがあったとしか思えない。
生けられていく枝ものや薄の銀色の穂や、紅葉したヒペリカムや、
菊やカラーの色を見ていて、
叔母を思い出した。
鋏の音も懐かしすぎた。
きつく目を閉じて、上を向いて、
泪が零れないようにするのに精一杯だった。

もう封印しないで、あなたも大好きな
花を生けなさい。

終わってから、お花の人にそう伝えなくちゃと思って
うまく話せるかわからないけど思い切って話したら、
泪が堰を切って溢れて、、、
でも、もう我慢しなくていいのだ。

嬉しい懐かしさの中で私を思い出して、
叔母はそう言っている。

花をいければそこに大好きな叔母が現れる。
きっと勇気をくれる。

花は糸電話。
そばだてる黄泉の耳。
そして鏡。笑顔が揺れる。
あちらとこちらをつないでくれる。

もうわたしは立とうって、
決めたから。
心配しないで、時々泣くかもしれないけど。
その時は
前と同じように困った子ね、って笑いながら叱ってね。

2017/9/27 TERRAIN VAGUE

赤坂氷川神社藍の生葉染め2017

赤坂氷川神社境内で藍を育て始めて5、6年経つ。今年は肥料食いの藍に牛糞を与え、順調に大きくなった。最初の鍬入れで腰をやってしまったので、ほぼ権禰宜の二人に任せる感じだった。
人気があって今年はダブルヘッダー。
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みなさんにカットのコツを教え、一人5、6本ずつ切ってもらい、葉を千切る。茎は発根するので持ち帰ってもらう。
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葉をジュースにする。濾して染液を作る。絞る時の感覚を味わってほしい。大切なものを頂くことだ。
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試しにシルクのリボンを染めてみた。さっと淡い緑が青になっていく様子を実況する。
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この後「青」や「藍」についての講義。